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昔は、大名、旗本しか食べられないほど高級品だった蒲鉾も、江戸時代中期以降には、武士、商人、町人へと順次広まっていきました。幕末になると下級武士は貧しくなり、旅先等では蒲鉾が食べられなくなりました。一方、商人は金持ちになり、蒲鉾ばかりか贅沢な食事をするまでになっていました。そんな商人たちを見て、「下級人の分際で、武士の魂である鉾を食べるとは、何ごとぞ」と嫌がらせを言う武士がいたのだそうです。 そこで、庶民は、武士に気兼ねして、蒲鉾と呼ばれていたちくわの切り口が竹の様であるところから、竹輪と書き、武士にはわからない隠語としてちくわと名づけました。いつしかちくわの方が、昔からの正式の呼び名のように定着し、板に付け蒸した板付蒲鉾が蒲鉾と呼ばれるようになったのです。
吉田(豊橋)の地は、かって伊勢の領地とされるなど、魅力的な土地でした。そのひとつは、豊富な海の幸に恵まれていたこと。今から450年ほど前の時代(天文6年)、今川義元公隆盛の頃、伊良湖より東海道・新居の宿にいたる片浜十三里の海で獲れた魚は、必ず熊野権現神社境内で売り買いしなければいけないと決められていました。そのため魚類が一定の場所に豊富に集荷され、大いに賑わったのです。 当時は魚市場という名前はまだありませんでしたが、慶長5年に正式な許可が下り、活気あふれる魚市場の誕生となりました。この熊野権現神社周辺は、魚町と呼ばれ、ヤマサちくわもここに本店をかまえています。 |
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